Tさんは続けて
「不安があるのはまだ本気の祈りになってないんや」
「不安が自分の祈りはまだまだ浅いと教えてくれているんや」
「だから不安に感謝せなあかんのや」
と言いました。
僕はなんで不安に感謝せなあかんのか全く分かりませんでした。
Tさんは
「誰でもありがとうと言われて怒る人はおらんやろ」
「ありがとうといわれると皆ニコニコする」
「ありがとうと言われたら、なんか手伝おうかと思ったりもする」
「逆にあの人こと嫌やなと思ってたら、相手もこちらの事を好きにはなってくれんし、力でねじ伏せようとしたら相手に反発されて上手い事いかん」
「「不安さん」をねじ伏せようと思っても疲れるだけや。」
「「不安さん」は自分の祈りの浅さを教えてくれるありがたいなと感謝するんや、そうすれば味方になってくれる」
と言いました。
僕はビックリしました。「不安さん」に感謝する、そんな考え方があったのかと。
Tさんは続けて教えてくれました。
「「不安さん」だけじゃなくて全てに感謝や」
「もっというと腎臓病に感謝やで」
僕はビックリを通り越して感情丸出しで、
「何で腎臓病になんか感謝せなあかんの」
と言いました。
こんなに苦しめられているのに憎みこそすれ、感謝なんか出来るわけがありません。
Tさんは僕が当然反発する事を予期したかの様に怒りもせずに落ち着いて
「こんな病気になってしもてとか思たらあかんで」
「誰もがならないこんな病気になったからこそ今までとは違う自分になれる、人生を切り開いて行けると思ったら腎臓病に感謝してもしきれんで」
「これが風邪や骨折や、たいした事のない病気やと本気で自分を変えようとはおもわん」
「本気で祈ろうとはおもわん」
「だから、命にかかわるような重い病気の方がええんや」
「腎臓病に感謝や」
と言った。
僕は今まで腎臓病になってから教師をやめて家で長い間療養していた。その間、僕の病気を心配したり同情されたり不憫に思われたりした事はあった。
でもこの病気になって良かったと、感謝するのだと言われた事はなかった。
そんな考え方もあるのかと驚いて、僕も腎臓病に感謝できる様にいつかなりたいと思った。