珈琲の味はともかく、お湯を沸かして豆をひいて珈琲を淹れるという作業が人工透析へ行く前の僕の毎回の決まり事になりました。
珈琲の良い香に包まれながら珈琲を淹れる一連の所作をたんたんと丁寧にこなしていくと、不安やイヤな気持ちは知らないうちにどこかへ消えていきました。体は珈琲を淹れるという事に集中していて心は何も考えていない無の状態でしょうか。
そして淹れたての珈琲を一口飲むと勇気が湧いて来たのでした。
人工透析をしていると近い将来に起こってくるであろう合併症や仕事をいつまで続けられるかと言った不安等が、珈琲を淹れていると、そんなに難しいことでは無い様な気がしてくるのです。
お湯を沸かす、豆を挽く、粉にお湯を注ぐといった珈琲を淹れる連続した動作と同じ様に、
人生において次々と起こってくるかもしれない問題もその都度、その都度上手く乗り越えられる様な気持ちが湧いて来たのです。
珈琲を淹れる事によって一種の瞑想のような状態になったのでしょうか。
僕はこの一連の動作と思考の消化を毎回、人工透析の前に行いました。
毎晩、Cちゃんと二人で1日の疲れを癒すために淹れる珈琲とはまた違った珈琲でした。
毎回の人工透析が痛みも無く良い治療が出来る様にと願う儀式でもあったし、
Cちゃんと結婚してなんとか将来にわたって幸せであり続けようと体調の不安を払拭するルーティンのような不思議な複雑なものでした。
それでなのか僕の淹れる珈琲の味は濃いとよく言われました。
珈琲は淹れる人の気持ちがそのまま味になるのだそうです。